ドイツワイン物語

王侯貴族とワイン

2019/02/02

ドイツのワイン文化史から、王侯貴族、権力者達にとってワインは単なる飲物ではなく、美酒とそれを造る酒蔵を所有することが、権力の象徴として一つのステータスだったことが分ります。約八千年前、メソポタミアのシュメール人によって、初めて造られたとされるワインが、ドイツに伝えられたのは、紀元前一世紀、古代ローマ国王・カエサルのガリア遠征の折、居城を築いたモーゼル・トリアーで、兵士達にとって必要不可欠なワインを、土着のクルド人に造らせた時とされています。
三世紀に入るとローマ帝国の国王・プロブスによって、ライン河流域に拡がり、更に八世紀半ばから九世紀初頭にかけて、ヨーロッパに覇を唱えたフランク王国のカール大帝が、フランス・ブルゴーニュ地方の畑に、シャルマーニュ(フランス名)と自らの名前を付けるほどの、ワイン好きも手伝って、行く先々でぶどうを植えることを奨励し、ラインガウの最初に陽が当たる丘に拡がる、ビショップベルク畑もその一つだと言われています。
十二世紀初頭、この農場にベネデェクト派の修道院が建てられると、洗礼者ヨハネの名を摂ってヨハニスベルクと名付けられ、フルダの大僧正の管理下に置かれ、毎年収穫期になると、完熟した葡萄の一房を携えた若い伝令史が馬を走らせ、大僧正から醸造の許可を貰い始めてワイン造りに掛かれたのです。
ところが、1775年のこと、伝令史は帰途の山中で山賊に襲われ、怪我を負って打ち捨てられていたのを、通りかかった農夫に救われ、息絶え絶えで辿り着いた時には。畑のぶどうは黴に侵され腐り始め、到底ワインにするような状態ではなくなっていたのです。
ところが、半ば諦め乍ら蔵人達が作ったワインは、得も言はれぬ味香を持った美酒になっていたのです。
このことが契機になって、ドイツワインの一大革命と言われる遅摘法が発見され、その後、次々と異なる製法が加わり最終的に六種類を、製法の特定できる名称で区分して、「上級ワイン」より格上の「肩書付きワイン」としたのです。
その中の「カビネット」の名称は特別で、ヨハニスベルク城醸造所から東に位置するエルトヴィレに、十二世紀初頭に創立された、クロスター・エバーバッハ修道院にその由来が残されています。
1803年、この地方の領主ナッソー公が収奪し踏み込むと、黒黴に覆われた奥深い密室に、素晴らしい芳香を放つ多くのワイン隠されていたのです。
これらのワインは修道院時代、幹部クラスの閣議「カビネット」に提供するため、毎年最高のワインだけを密室「カビネット」に蓄えたものだったのです。
1811年、修道院が上級ワインを「カビネットワイン」と銘打って売り出すと、味香の素晴らしさに名声が上がり、それにあやかろうと、他の醸造所がこぞって自家の上級ワインに使い、その品質が評価され「肩書付きワインに格上されたのです。
さて、ヨハニスベルク城はその後、ナッソー公國の皇太子の所有となって還俗され、1804年にフランス国の皇帝の座に就いた、ナポレオンがヨーロッパ全土を掌握すると、北方を統べる拠点とし、ナポレオン失脚後は、ヨーロッパの再編を話し合ったウイーン会議で、オーストリア皇帝フランツ一世の所有となると、皇帝は会議を成功させた褒美として、宰相メッテルニッヒ侯に与えたのです。
しかし、最後のメッテルニッヒ候に跡取りがなく、現在は、新興のワイン業者の所有となり、王侯貴族の命運に翻弄され続けてきた、城の歴史は大きく変わろうとしているのです。